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きりやま へいけでんせつ
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切山 平家伝説 四国中央市 川之江 真鍋家 |
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安徳谷の紅葉(クリックで拡大するよ!) |
雄ちゃんです。
ここでは、切山に伝わる平家伝説を紹介するよ。雄ちゃんも、平家の武将に姿を変え、各々方を夢と神秘の歴史の旅へと誘い申そう。
先ずは、切山に残される唯一の古文書、「田辺家系譜」を御覧あれ〜!
(国指定重要文化財 十六代当主真鍋潤氏所蔵)
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田辺家系譜
(クリックで拡大 4400×360 274K ちょっと横に大きいので注意) |
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どうかな、各々方。読解できたであろうか?
何を隠そう、かく申す拙者も公家たちと蹴鞠に興じすぎ、漢文の勉強をおろそかにした為、よく解らないのである・・・。
そこで、「切山平家遺跡保存会」が発刊したパンフレット等を参考に、歴史的背景とともに、かいつまんでご説明致そう。
人皇八十一代、安徳天皇は、元暦元年(1184年)6月、わずか五氏の武将(田辺太郎・平清国、真鍋次郎・平清房、参鍋三郎・平清行、間部藤九郎・平清重、伊藤清左衛門国久)に守られ、阿波の国(祖谷村)より伊予国宇摩郡切明村に御遷幸された。
その道中、日替谷にて、俄に暗黒と成ったが、四士は守護してきた熊野権現を祈念し、天王も観世音菩薩の尊像を御祈念あそばされたら、不思議にもたちまち光明輝き、難を逃れられ、無事、切明村土釜にお着きになられたのだ。
その後、十四代仲哀天皇、十五代神功皇后、十六代応神天王を奉り、八幡宮と号し、武運を祈ったとのことだ。
約半年の間、安徳の窪で過ごされていたのだが、文治元年(1185年)正月、平知盛、平教経らご家門の人々がお迎えに来られ、讃岐国須田の浦(香川県詫間町須田)より船出され、長門国赤間へと向われた。
その時、讃岐国まで御見送りした五士は、「阿波の守護代をしていた田内氏が源氏に寝返り、幼帝のあとを追っている」ことを風聞し、すぐさま阿波国に入り、少々の味方を集め、田内氏と戦った。だが、小勢にして、ついには敗軍に及び、真鍋次郎・平清房は討ち死にし、残る四士も深手を負い、やむなく切明村に引き返した。
その後、五士ともこの地に住みつき、切山開拓の人となっていったという訳じゃ。
そこでじゃ、なぜ平家一族は幼帝を山深い祖谷へ、さらには切明村へと御遷幸させなければならなかったのか。
元暦元年(1184年)2月、平氏は一の谷の戦いに敗れて屋島に陣を置いたが、いつ源氏方が攻め入るかわからない情勢下に、幼帝を少しでも安全な地へお移ししようと祖谷へと逃れたのだ、と考えられる。
しかし、その後、源氏義経の大軍が阿波に潜入した風聞に、より安全な地を求め、山伝いに切明村まで御遷幸されたものと思うのじゃ。
その後、屋島の合戦を前に、源氏方からより遠ざけるために、ひとまず長門の国へとお移しなされたのだと思われる。
さて、それから安徳帝は何処へ───? (つづく)
安徳天皇が船出したと伝えられる須田ノ浦(香川県詫間町須田) |
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